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【バイオグラフィ】DENMARKロック百科 (1995-2003)
--このバイオグラフィーについて--
本文の原文は、デンマーク語で書かれた
Denmark Rock Encyclopedia(デンマークロック百科)というものから引用した文章のようです。2003年4月頃、デンマークのMEWファンによって、デンマーク語から英訳されオフィシャルサイの旧掲示板に投稿されていました。当時私がその英訳をさらに和訳したものが下記です。私の辞書レベルの乏しい英語では、投稿された英訳は理解しづらく、また、デンマークの音楽事情等にも詳しくないため、文章に曖昧な点や読みにくい点があるかと思います。ご理解いただければ幸いです。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
MEWのメンバーは1995年に出会い、同年12月Propdenopの前座として、Port Friendlyと共にコペンハーゲンのベニューStengade30でデビューした。
----1996年----
翌年1996年2月、彼等はScotland出身のTelstar Poniesの前座を勤めた。その後、Jonasにある人物が直接連絡をしてきた。その人物とは Nikolaj Norlund 、Denmarkのシンガーソングライターである。
彼はJonasに、P4とP1*で放送する、彼のアルバムNavnlos(Nameless)*からの曲"Lille Digt(DetlilleDigt)"のアコースティックバージョンを一緒に演奏しようと申し出たのだった。この曲はこの年の春、Det Elektriske Barometer*の放送内でのみ流された。
*P4とP1:DR (Denmark放送協会)のラジオチャンネル
*Det Elektriske Barometer :DRのラジオチャンネル「P3」内の番組プログラム
*アルバム'Navnlos(Nameless)'は全編デンマーク語、Exlibrisからのリリースです。
同年の3月〜4月、MEWは2つのコンサートで演奏をした。いずれもDenmarkのミュージシャンとともに出演。1つはPurrと共に、もう1つはLOVEBITESだった。6月には、コペンハーゲンのベニューLOPPENにて、アメリカのインディーバンドをサポートした。
続いてMEWは、DenmarkのミュージシャンLuksus*と共に 様々なP4 people(?)が集まるイベントKlub Tidens Toneklangで演奏し、 さらにはDJとしても活躍した。
ヨーロッパにおける、MEWのフェスとの関わりは1996年11月ごろからで、DRのラジオチャンネルP3主催のライブでは WHEREVER を演奏した。その演奏には親友のHannah Heilmannがフルートプレイヤーとして参加した。
コペンハーゲンのベニューVEGAでのその年のクリスマスイベントは、MEW のコンサートで盛り上がりを見せた。そのイベントにはNikolaj Norlund,Luksus, Port Friendly,Lovebites,Speaker Bite Meなどのミュージシャンたちも出演した。
またこの年の秋には、スカンジナビアのレコードレーベルExlibrisがMEWと契約を交していた。 英語で書かれた彼等のデビューアルバムがそこからリリースされることになる。
*Luksus:2001年解散。元LuksusギタリストMikael simpson
----1997年----
1997年始め、メンバーはプロデューサーの DAMON TUTUNJIAN (THE SWIRLIES)と共に デビューアルバムのレコーディングのためスタジオ入りする。
同年3月始め、1stシングル I SHOULD HAVE BEEN A TSIN-TSI (FOR YOU)がデンマークでプロモーションリリースされた。この曲のPVは、Nicolas Windingがディレクターを勤めた。
4月、彼らのデビューアルバム A TRIUMPH FOR MAN がリリースされ、 その評判は極めて良好だった。これがリリースされた時、メンバーの平均年齢は20歳だった。その後、5月にかけて彼等はLuksusと共にDenmark各地を巡るツアーに出たのだった。
MEWは SHE CAME HOME FOR CHRISTMAS をクリスマスシングルにと、デビューアルバムに収録されている同曲をアレンジした別バージョンをリリースすることを考えた。
彼等は KASPER WINDING にコンタクトを取り、その曲のプロデュースの依頼。ゲストにはデンマーク少年聖歌隊が参加し、完全に新しいバージョンが提案されたのである。12月、 レコードショップに並んだSHE CAME HOME FOR CHRISTMASのEPには、その曲も収録されていた。この曲のすばらしいPVを製作したのはJoachim Bachであった。
----1998年----
1998年、MEWはベニューやフェスで演奏し、 この年の夏、Denmarkの伝統あるロックフェス:ROSKILDE FESTIVAL にも出演した。その後メンバーはしばらくの間、次のアルバムの曲作りにかかっていた。
それと同じ頃、MEWはEXLIBRIS から離れようとしていた。その後、自主レーベルのEVIL OFFICE を設立。次の彼らの2ndアルバムはこのレーベルからリリースされることになる。
----2000年----
1月、MEWは再びライブ活動を開始。 この時、アイスランドのミュージシャン:SIGUR ROS と共に回った。
MEWの次のアルバム: HALF THE WORLD IS WATCHING ME のレコーディングは、途中アメリカのニューヨークとテキサスへのギグのために中断もしたが、 コペンハーゲンのスタジオ:SWEET SILENCE STUDIOで、Flemming Rasmussenと共に行われた。
同年5月、そのアルバム: HALF THE WORLD IS WATCHING ME はリリースされた。それには2つのデュエットソングが含まれていた。1つはスウェーデンのシンガーSTINA NORDENSTAM と、もう1つは当時若干13歳の少女: Beckey Jarretとともに歌ったものだった。彼女はアメリカのジョージアに在住で、 Jonasとはインターネットのチャットで知り合ったそうである。
このアルバムには更に、TIM CHRISTENSEN(mellotron), Klaus Nielsen(keyborads),Rasmus Sugarglam(piano), Kasper Tranberg(trumpet)...らが参加している。 その結果、一層メロディアスなものになり、1stアルバムよりさらにレベルアップしたものになった。プレスも一般リスナーもこれをとても好意的に受け入れたのである。
そしてこのアルバムからの1stリリースシングル KING CHRISTIAN はP3で頻繁に取り上げられ、 また、このアルバムは、DKの音楽雑誌GAFFAの読者投票により、2000年のベストアルバムに挙げられた。
----2001年----
MEWは再びツアーに出る。そのライブでは彼らの背景にJonas制作のビデオが流された。
2001年2月、MEWはRobbie Williamsのサポートとして、Denmark/Swedenを周り、そこで今までにない多くのオーディエンスを前にしたのである。
3月19日、MEWはプレスからすばらしい告知を受ける。 大手レコードレーベルのEpic Sonyとの契約の話だった。
4月、Sort Solとともにツアーに出たMEWは、この年多くのサマーフェスティバルにも出演。
2001〜2002年にかけての冬、彼等はプロデューサーのRick Costeyと共にLos Angeles/London/Copenhagenで次のアルバム: FRENGERSのレコーディングを行った。
彼等にとって初の世界デビューとなるそのアルバムには、 この アルバムのための新曲と、mewが過去にリリースした曲の中でもベストソングと言えるもののニューバージョンがおさめられている。
本文の原文は、デンマーク語で書かれた
Denmark Rock Encyclopedia(デンマークロック百科)というものから引用した文章のようです。2003年4月頃、デンマークのMEWファンによって、デンマーク語から英訳されオフィシャルサイの旧掲示板に投稿されていました。当時私がその英訳をさらに和訳したものが下記です。私の辞書レベルの乏しい英語では、投稿された英訳は理解しづらく、また、デンマークの音楽事情等にも詳しくないため、文章に曖昧な点や読みにくい点があるかと思います。ご理解いただければ幸いです。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
MEWのメンバーは1995年に出会い、同年12月Propdenopの前座として、Port Friendlyと共にコペンハーゲンのベニューStengade30でデビューした。
----1996年----
翌年1996年2月、彼等はScotland出身のTelstar Poniesの前座を勤めた。その後、Jonasにある人物が直接連絡をしてきた。その人物とは Nikolaj Norlund 、Denmarkのシンガーソングライターである。
彼はJonasに、P4とP1*で放送する、彼のアルバムNavnlos(Nameless)*からの曲"Lille Digt(DetlilleDigt)"のアコースティックバージョンを一緒に演奏しようと申し出たのだった。この曲はこの年の春、Det Elektriske Barometer*の放送内でのみ流された。
*P4とP1:DR (Denmark放送協会)のラジオチャンネル
*Det Elektriske Barometer :DRのラジオチャンネル「P3」内の番組プログラム
*アルバム'Navnlos(Nameless)'は全編デンマーク語、Exlibrisからのリリースです。
同年の3月〜4月、MEWは2つのコンサートで演奏をした。いずれもDenmarkのミュージシャンとともに出演。1つはPurrと共に、もう1つはLOVEBITESだった。6月には、コペンハーゲンのベニューLOPPENにて、アメリカのインディーバンドをサポートした。
続いてMEWは、DenmarkのミュージシャンLuksus*と共に 様々なP4 people(?)が集まるイベントKlub Tidens Toneklangで演奏し、 さらにはDJとしても活躍した。
ヨーロッパにおける、MEWのフェスとの関わりは1996年11月ごろからで、DRのラジオチャンネルP3主催のライブでは WHEREVER を演奏した。その演奏には親友のHannah Heilmannがフルートプレイヤーとして参加した。
コペンハーゲンのベニューVEGAでのその年のクリスマスイベントは、MEW のコンサートで盛り上がりを見せた。そのイベントにはNikolaj Norlund,Luksus, Port Friendly,Lovebites,Speaker Bite Meなどのミュージシャンたちも出演した。
またこの年の秋には、スカンジナビアのレコードレーベルExlibrisがMEWと契約を交していた。 英語で書かれた彼等のデビューアルバムがそこからリリースされることになる。
*Luksus:2001年解散。元LuksusギタリストMikael simpson
----1997年----
1997年始め、メンバーはプロデューサーの DAMON TUTUNJIAN (THE SWIRLIES)と共に デビューアルバムのレコーディングのためスタジオ入りする。
同年3月始め、1stシングル I SHOULD HAVE BEEN A TSIN-TSI (FOR YOU)がデンマークでプロモーションリリースされた。この曲のPVは、Nicolas Windingがディレクターを勤めた。
4月、彼らのデビューアルバム A TRIUMPH FOR MAN がリリースされ、 その評判は極めて良好だった。これがリリースされた時、メンバーの平均年齢は20歳だった。その後、5月にかけて彼等はLuksusと共にDenmark各地を巡るツアーに出たのだった。
MEWは SHE CAME HOME FOR CHRISTMAS をクリスマスシングルにと、デビューアルバムに収録されている同曲をアレンジした別バージョンをリリースすることを考えた。
彼等は KASPER WINDING にコンタクトを取り、その曲のプロデュースの依頼。ゲストにはデンマーク少年聖歌隊が参加し、完全に新しいバージョンが提案されたのである。12月、 レコードショップに並んだSHE CAME HOME FOR CHRISTMASのEPには、その曲も収録されていた。この曲のすばらしいPVを製作したのはJoachim Bachであった。
----1998年----
1998年、MEWはベニューやフェスで演奏し、 この年の夏、Denmarkの伝統あるロックフェス:ROSKILDE FESTIVAL にも出演した。その後メンバーはしばらくの間、次のアルバムの曲作りにかかっていた。
それと同じ頃、MEWはEXLIBRIS から離れようとしていた。その後、自主レーベルのEVIL OFFICE を設立。次の彼らの2ndアルバムはこのレーベルからリリースされることになる。
----2000年----
1月、MEWは再びライブ活動を開始。 この時、アイスランドのミュージシャン:SIGUR ROS と共に回った。
MEWの次のアルバム: HALF THE WORLD IS WATCHING ME のレコーディングは、途中アメリカのニューヨークとテキサスへのギグのために中断もしたが、 コペンハーゲンのスタジオ:SWEET SILENCE STUDIOで、Flemming Rasmussenと共に行われた。
同年5月、そのアルバム: HALF THE WORLD IS WATCHING ME はリリースされた。それには2つのデュエットソングが含まれていた。1つはスウェーデンのシンガーSTINA NORDENSTAM と、もう1つは当時若干13歳の少女: Beckey Jarretとともに歌ったものだった。彼女はアメリカのジョージアに在住で、 Jonasとはインターネットのチャットで知り合ったそうである。
このアルバムには更に、TIM CHRISTENSEN(mellotron), Klaus Nielsen(keyborads),Rasmus Sugarglam(piano), Kasper Tranberg(trumpet)...らが参加している。 その結果、一層メロディアスなものになり、1stアルバムよりさらにレベルアップしたものになった。プレスも一般リスナーもこれをとても好意的に受け入れたのである。
そしてこのアルバムからの1stリリースシングル KING CHRISTIAN はP3で頻繁に取り上げられ、 また、このアルバムは、DKの音楽雑誌GAFFAの読者投票により、2000年のベストアルバムに挙げられた。
----2001年----
MEWは再びツアーに出る。そのライブでは彼らの背景にJonas制作のビデオが流された。
2001年2月、MEWはRobbie Williamsのサポートとして、Denmark/Swedenを周り、そこで今までにない多くのオーディエンスを前にしたのである。
3月19日、MEWはプレスからすばらしい告知を受ける。 大手レコードレーベルのEpic Sonyとの契約の話だった。
4月、Sort Solとともにツアーに出たMEWは、この年多くのサマーフェスティバルにも出演。
2001〜2002年にかけての冬、彼等はプロデューサーのRick Costeyと共にLos Angeles/London/Copenhagenで次のアルバム: FRENGERSのレコーディングを行った。
彼等にとって初の世界デビューとなるそのアルバムには、 この アルバムのための新曲と、mewが過去にリリースした曲の中でもベストソングと言えるもののニューバージョンがおさめられている。
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by a_sound
| 2005-01-01 23:58
| Mewバイオグラフィー
【バイオグラフィ】UNDER THE RADAR Issue6 (2004) - MEW INTERVIEW
--この文章について--
本文は、アメリカの音楽雑誌「UNDER THE RADAR( Issue6) 」に掲載された
MEWへのインタビューの和訳です。英語が得意でないので、読み辛い点や
多少の解釈の誤りもあるかもしれません。ご理解頂ければ幸いです。
-----------
『そのバンドと僕らが比べられることは、特別悪いことじゃない。
"Take Me On"は多くのバンドが書く曲より、優れた曲の1つだよ』
良識あるベーシストのJohan Wohelertは、1985年にアメリカで
ただ1度のヒットを放ったバンド、"a-ha"について静かに思いを巡らす。
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本文は、アメリカの音楽雑誌「UNDER THE RADAR( Issue6) 」に掲載された
MEWへのインタビューの和訳です。英語が得意でないので、読み辛い点や
多少の解釈の誤りもあるかもしれません。ご理解頂ければ幸いです。
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『そのバンドと僕らが比べられることは、特別悪いことじゃない。
"Take Me On"は多くのバンドが書く曲より、優れた曲の1つだよ』
良識あるベーシストのJohan Wohelertは、1985年にアメリカで
ただ1度のヒットを放ったバンド、"a-ha"について静かに思いを巡らす。
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by a_sound
| 2005-01-01 23:57
| Mewバイオグラフィー